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2021年09月24日

体験から学んだ中国観(1)ー 初めての訪中

私は昭和17年10月、中華民国・上海市の日本人租界の中で生まれました。父がある日本商社の駐在員だったからです。                                                 出生時は別にして、私が初めて中国を訪れたのは、今から45年前の1976年11月でした。当時はまだ34歳、宇部興産㈱の若手社員として、広東省広州市で毎年開催される交易会で、化学品の商談をするためでした。なお、その年の9月に、「建国の祖」とされる毛沢東・元国家主席が82歳で亡くなり、同時に10年間にわたって吹き荒れた「文化大革命」が終わりました。 

「文化大革命」の歴史的評価は未だ継続中ですが、存在感が低下した毛沢東・元国家主席が、劉少奇国家主席(当時)から権力奪還を目論んだことが定説となっています。この運動では高級幹部や知識人、教師などが「反革命」の烙印を押され、1000万人が命を失い、1億人が様々な被害を被り、中国史上最悪の「暗黒の時代」と唱える歴史家もいます。 

こういった中国の歴史的転換期に広州市を訪問したのですが、入国直前に中国内部で騒乱が始まったという情報も流れていました。実際は首謀者・江青(毛沢東夫人)ほか「四人組」が逮捕されたことを喜び、街中に人々が繰り出し爆竹が鳴り響くお祭り騒ぎでした。 

当時、日本から広州市へは香港経由で九龍駅から広九鉄道に乗り、中国との国境の駅・羅湖まで行きました。その先の鉄道は寸断されており、対岸の深圳に跨る鉄橋を歩いて渡り、橋の真ん中が香港と中国の国境線でした。因みに、深圳は元は漁村でしたが、後に「中興の祖」と称されるに至った鄧小平国家主席(当時)により、1980年、初の「経済特区」に指定され、瞬く間に人口は1300万人まで膨れ上がり、中国のシリコンバレーへと急成長しました。                                                                                                                                                                                                                                    なお、たまたま同じ1976年の夏、私は広州市訪問の前にインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れました。その当時、両国の生活環境は体感的にはほぼ同じくらい低レベルでした。ところがその後の45年間に、中国は改革・開放政策を積極的に進め、GDP は2010年に日本を超え、今では我が国の約3倍(2020年-14.7兆ドル、日本は5.4兆ドル)の経済規模に達しています。そして2028年には米国のGDP(2020年-22.3兆ドル)を抜くとの予測がなされています。その一方で、共産党一党支配の下、個人や企業の自由は制限されています。 

他方、インドの人口は現在13.6億人ですが、2027年に中国(現在14億人)を抜くとされています。しかしGDPは目下のところ中国の1/5(2020年-2.7兆ドル)に止まっています。インドは世界最大の民主主義国家とされており、政策運営に当たっては民意(選挙)を意識せざるを得ず、中国と比べるとどうしてもスピード感が劣ります。 

45年前に両国を同時に訪問した際、目の当たりにした光景と現在の状況を見比べ、国家主義(全体主義)か個人主義(民主主義)かについて、もし二者択一を迫られたと仮定するといろいろと考えさせられます。

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