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2021年11月12日

ベトナムの人々との交流(20)

私が初めてベトナムの地に降り立ったのは1974年でした。それはベトナム訪問が目的ではなく、タイ・バンコクからフィリピン・マニラに向かう際、搭乗したエア・フランス機がベトナム・サイゴン市(現在のホーチミン市)のタンソンニャット空港にトランジットで2時間ほど立ち寄った時でした。当時はベトナム戦争(1965年11月1日~1975年4月30日)のさなかで、空港から外には出られませんでしたが、そこで見た光景は、正に映画「プラトーン」そのものでした。滑走路の周辺にはかまぼこ型の兵舎と、遮蔽壕で守られた戦闘機、それに多数の機関砲が並んでいました。厳戒中の兵士は銃弾を体に巻き付け、眼は血走っていました。「これが間近で戦争をしている国なんだなあ」という印象でした。その後同国はカンボジア侵攻(1978年)、中国との戦争(1979年)と緊張した軍事情勢が続きましたが、1980年代に入りドイモイ(刷新)政策を取り入れ改革を推進。1995年にASEAN加盟、そして米国とも国交を回復しました。

前職(鴻池運輸)時代の1993年、同社は日本の物流業者として最初に、同国に駐在員事務所を開設しました。実はベトナムへの進出は1990年頃から検討していたのですが、同国は依然ベールに包まれた謎の国でした。当時、鴻池運輸は既にシンガポール、ジャカルタ、香港、中国(北京・上海)、並びに米国・ロサンゼルスに拠点を設置していました。そして社内の提案では「次はバンコク」でした。実際、そのころタイは日本からの企業進出ラッシュでした。物流業者も既に約50社が進出済みでした。ところが私が得ていた情報では、その中で利益が出ているのは精々2~3社に過ぎないことでした。そこで私は「そんな過当競争の中に今さら進出しても、商権拡大には安値受注しかない。それより隣を見てみろ。前人未踏の国(ベトナム)があるじゃないか」と、再検討を指示しました。つまりブルーオーシャン戦略です。その後、1997年にアジア通貨危機といった厳しい時期がありましたが、今では800名を超える現地社員を雇用するまで順調に業容を拡大しています。

なお、ベトナムとの交流で忘れられぬ人たちがいます。
その一人は事務所開設直後に表敬訪問した、当時のホーチミン市人民委員会委員長(市長) チュオン・タン・サン閣下です。私はこれまで毎年1~2回、ベトナムを訪問していますが、毎回閣下との面談が楽しみです。閣下は順調に政治的地位を高められ、2011年7月、とうとう国家主席(大統領)まで上り詰め、5年間の職務を全うされました。大の親日家で、当時ベトナムで放送中の日本映画「おしん」を大変気に入っておられました。市長時代に初来日された際には、京都の焼き鳥店にご案内し、日本酒を酌み交わしたことも懐かしい思い出です。この2年ほどは残念ながら、コロナ感染拡大でお会いする機会がありませんが、再会を楽しみにしているところです。
もう一人はベトナム訪問時にいつも通訳をお願いするレー・バク・バン女史です。彼女は元・北ベトナムの日本語放送のアナウンサーで、サイゴン陥落の歴史的瞬間を海外向けに発信しました。北爆(米軍による北ベトナム爆撃)のさなかには放送が途絶えぬよう、機材を持って洞窟から洞窟へと移動したそうです。既に80歳を超えられ、見た目は普通の「おばさん」ですが、実は日本語だけでなく、中国語、ロシア語を自由に操る語学の天才です。ホーチミン大統領と周恩来首相の会談時の通訳や、日本とベトナム両国政府の首脳外交の通訳も務められました。

こういった方々との交流を通じ、私はベトナムの人々の深い親日感情はもとより、過去の歴史で示された「組織力」と「不屈の精神」、そして脈々と流れる「民族の誇り」を学びました。

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