60年前の青春時代の真っただ中で観た、米国映画「ウエスト・サイド・ストーリー」(1961年映画化)の復刻版の上映が始まったと聞き、先日鑑賞しました。この作品はブロードウェイのミュージカル(初演、1957年8月)を映画化したものです。物語はポーランド系とプエルトルコ系非行少年グループが対立する中での「禁じられた恋」です。今回の作品の出演者は私には馴染みがありませんが、前作の主演はナタリーウッドとリチャード・ベイマーでした。ところが私の印象に残っているのは助演のジョージ・チャキリス(プエルトリコ系グループのリーダー役)の個性と歌と踊りでした。筋書きも結末も分かっていましたが、マンハッタンのなつかしい風景や様々な思い出が蘇り、上映時間2時間40分を飽きることなく楽しむことが出来ました。
私が初めて米国を訪れたのは1971年9月、28歳の時でした。当時、私は所属していた宇部興産㈱から貿易研修センター(静岡県富士宮市)に研修生として派遣され、様々な業種・企業出身の120名の仲間と1年間寝食を共にし、国際経済、並びに英語プラス第2外国語(私は中国語を選択)を学びました。その卒業旅行が米国視察でした。その後も何度か出張で訪れましたが、念願かなって1978年6月、米国会社(ニューヨーク)に出向となり、1983年9月まで5年4カ月間、現地で勤務しました。その後、鴻池運輸㈱に転じ、1985年に国際物流事業の一環として米国ロサンゼルスに事務所を開設しました。そして1988年8月に同地区で冷凍倉庫事業の展開を決定し、本格的に米国でのビジネスに取り組みました。
この度、「ウエスト・サイド・ストーリー」を観て、改めて米国での生活やビジネスについてノスタルジアを感じたことから、これから数回に分け現地での経験や学んだことを思い出すままに記したいと思います。もちろん私が過ごした時代と現在とでは、生活もビジネス環境も大きく変わっています。そのため些か「時代錯誤」のきらいがあるかも知れませんが、底辺にあるものや変っていないものもある筈と思います。
そもそも私が「なぜ米国に興味を持つようになったのか」を振り返ってみますと、思い浮かぶのは父親が貿易商社に勤務していた関係で、小学生のころから身近なところに「LIFE」という米国の「グラフ雑誌」があったからではないかと思います。このブログを作成するにあたり、インターネットで検索してみたところ、同誌は1936年11月に週刊誌としてニューヨークで創刊され、2000年5月に廃刊になったようです。「フォト・エッセイ」と称されたように、ほとんどが写真で埋め尽くされていたことから、私のような子供にとっても興味をひく雑誌だったように記憶しています。
なお、私が米国駐在員として、「新東京国際空港」(現在の、「成田国際空港」)を出発したのは1978年6月1日のことです。同空港が開港したのは出発する11日前の1978年5月20日でした。当初の開港予定は同年3月20日でしたが、その4日前に開港に反対する過激派ゲリラが空港内に突入し、管制塔の機器を破壊したため開港が2カ月遅れたのでした。
そういった騒然とした世の中であったことから、空港内への立ち入りは出発する本人以外は禁止。さらに、空港入口からターミナルに入るまで3回所持品のチェックがあり、機動隊がものものしく警戒する中での出発でした。当時は今とは違い海外赴任となると、大勢の会社関係者や友人が集まって「万歳三唱」して盛大に見送るのが慣例でした。私も何度かその音頭を取る役割を務めましたが、私の場合はひっそりと唯一人の寂しい出発でした。しかし心の中は「よし! やるぞ!」という気持ちで一杯でした。
そして2カ月後に妻と3歳の娘、2歳の息子が到着し、ニユーヨークでの仕事と生活が本格的に始まりました。