私は1983年9月、40歳の時、鴻池運輸㈱に身を転じました。そして当時の会社の実態を知るにつれ懸念したことは、ある特定部門(鉄鋼)への依存度が余りにも高すぎるということでした。これを何とかしないと、その部門にフォローの風が吹いているうちはよいのですが、ひとたびアゲインストになるとひとたまりもありません。そこに私は危機感を持ち、「医・衣・食・住」に「国際物流」を加えた5部門を育成・強化し、「総合物流企業」を目指すことを目標に掲げました。そのためには社員の「意識改革」が必要でした。ところが、100年以上の歴史を有し、しかも「鉄は国家なり」と言われるほど盤石で、その部門だけで十分やっていけた時代に、「構造改革」の必要性を説くことは容易ではありませんでした。今も何事であれ「意識改革」さえ出来れば、「制度改革」「構造改革」は可能と考えています。それほど「意識改革」というのは大変で、それがまさに企業のトップが果たすべき重要な役割だと考えます。
さて、その目標の一つ「国際物流」のビジョンとして先ず考えたことは、日本を扇のかなめとして、米国西海岸と、発展途上にあったアジア諸国、それに「改革・開放」が緒に就いた中国を囲む環太平洋経済圏において、キメ細かな物流サービスを提供することでした。ところが当時は社員にとっては全く未知の世界で、「今度、中国に行ってもらうことになった」といったところ、「岡山ですか、広島ですか」と聞き返されるという、今では笑い話のようなこともありました。
そして1985年に米国ロサンゼルス、中国―北京・上海、香港、シンガポールと一挙に海外拠点を開設しました。今では中国では青島ほか数か所、それにベトナム、フィリピン、インドネシア、タイ、ミャンマー、インドへとネットワークが拡がっています。
米国については、自身の経験から、ロッキー山脈より西はアジア諸国と経済的に密接な関係があり、物流面での米国へのゲートウェイと考えていました。そのためロサンゼルスを活動の中心にすることに何の迷いもありませんでした。そして駐在員を2名派遣することにしましたが、「現地で何か考えろ」といっても無理です。そこで少しでも「実務を持たせる必要がある」と考え、小規模の日系フォワーダー(通関業者)を買収しましたが、結果的にはうまくいきませんでした。しかし私は今も、フォワーディングは現地への進出のための先兵と考えています。
そうこうしているうちに、当時、ロサンゼルス港湾局に勤務していた森本政司氏(現在、ジェトロ-日本貿易振興機構のアドバイザー)との出会いがありました。同氏とはその後今日に至るまで、35年に及ぶ交流が続いています。この出会いが今日の鴻池運輸の米国でのビジネスの柱となる、冷凍冷蔵倉庫事業への進出のきっかけとなりました。というのは、その縁でシアトルで同事業をやっているカナダ系米国人を紹介され、ロサンゼルス近郊で同事業に乗り出すことになったからです。
そして、私が冷凍冷蔵倉庫の建設予定地(約7.3万㎡)に初めて足を踏み入れたのは、忘れもしない1988年8月8日でした。ここから鴻池の米国での新しい歴史が始まりました。そこは石油製品製造工場の跡地でした。敷地内にはオイル・リグがあり、土地の購入代金には石油の採掘権も含まれました。当時、原油価格は1バレル10ドル台でしたが、私は「100ドルになったら採算に合うかなあ」などと回りに言ったようです。
すべては順調に進行しているように思われましたが、その後、様々な問題が生じ苦労の連続で、倉庫が稼働したのは土地の購入から6年後の1995年1月、そして収益面で軌道に乗せるのにさらに10年かかりました。続きは次号で触れることにします。
追記: ロシアがウクライナに侵攻して約50日。連日すさまじい破壊が続いており、テレビに映し出されるのは廃墟と化した町の姿です。過去の歴史を見ると、プーチンのような特異な思い込みから、目的達成には「戦争も辞さず」という、狂気の人物が時たま出現することがあります。こういったことが現実に起こると、「油断大敵」や「備えあれば憂いなし」という、先人の教えを思い知らされます。
一方、このところ「円」が売られ、あのロシアの「ルーブル」に次ぐ弱さが指摘されています。そして原油を始め商品価格の高騰と20年ぶりの円安により、2月の企業物価は9.3%と大幅に上っているにも関わらず、消費者物価指数は0.6%の上昇に止まっています。同じ月、米国の消費者物価は7.9%上昇し40年ぶりの高い水準となり、英国でも6.2%と30年ぶりの急上昇と比較すると、異常に低い数字です。これは政府の政策が功を奏しているというより、昨年までの20年間に賃金が4%しか上がっていないことに象徴されるように、我が国経済は資本のダイナミズムが弱くなり、人間の体でいえば動脈硬化の症状を呈しているようで将来を危惧せざるを得ません。