私は元職(宇部興産)時代、大阪万博が開催された1970年(当時28歳)、会社から1年間、研修生として貿易研修センター(静岡県富士宮市)という国際人養成機関に派遣されました。このセンターは政府(当時の通産省)と経済界が折半出資して設立され、私は第2期生でした。派遣生は様々な政府官庁・業界から集まった同世代の120名でした。語学は英語に加え第2外国語が必須で、私は中国語を学びました。中国語のクラスはわずか10名程度でしたが、在学中の1971年に7月、当時のキッシンジャー米国国務長官の劇的な中国訪問により、米中雪解けの兆しから一挙に中国語ブームとなり、翌年のクラスは全体の半数を超えたそうです。
なお、研修期間中には数多くの思い出があり、当時の同期生とは今も付き合いが続いています。「異業種交流」と「国際人養成」は今まさに我が国に求められていることだと思います。なお、同センターの富士宮キャンパスは1992年に閉鎖され、センターの名称も「国際経済連携推進センター」に変更されています。
そして、忘れられぬ思い出の一つとして、研修期間中、皇太子殿下並びに美智子妃殿下(現在の上皇さまご夫妻)が視察にこられました。その際、私は両陛下の館内視察時は図書館で読書しながらリラックスしていました。そこに思いもかけず陛下ご一行が近づいてこられ、お言葉を掛けていただきました。その日、私はワイシャツの袖はたくし上げ、ズボンにはベルトも通さずといった全くのラフな姿。予想していなかったとは申せ、今思い出すと赤面の至りです。
なお、その時のことが翌日の静岡新聞に記事として掲載されました。
新聞の実物は残っておらず、記事は新聞社のマイクロフィルムから取り出しました。字句並びにその際に掲載された写真(私は後ろ姿)は不鮮明なため、読み取れた記事の部分のみを転記します。
■1971年6月7日付・静岡新聞記事の抜粋:
【皇太子ご夫妻は6月6日午後0時36分着の新幹線下りこだま号で三島駅にご到着、貿易研修センターを訪問された。
貿易研修センターは貿易を主とする国際的な経済活動に従事できる「国際人」を養成する施設。国内の有名企業のエリートたち120人が全寮制で一年間、語学(英語・フランス語・スペイン語・ドイツ語・ロシア語・中国語)の研修と、国際的素養の習得に励んでいる。富士山の西南麓、白糸の滝の近くにあり、自然環境に恵まれ、立派な語学研修室、図書館などを具えている。
午後1時42分車から降りられた両殿下は20分のご休憩のあと、堀江理事長のご案内で図書館、語学演習室を見学された。殿下は白い背広、妃殿下は白いジレー付シルバー・グレーのスーツ、オレンジ色の帽子というさわやかなお姿で、親しく研修生たちにお言葉をかけられた。
図書館に入られた両陛下は洋書など約8千冊の蔵書にご関心を示され、書庫をご欄になられたあと、館内で休憩していた研修生の辻 卓史さん(28)らに出身地や会社名など親しげに話しかけられた。第二外国語として中国語を専攻しているという辻さんに「どのような勉強をしているのですか」、「中国語は発音は大変でしょう」などとご質問された。 ―――(中 略)―――
お言葉をかけられた辻さんらは「勉強しなくては知らないようなポイントを突いたご質問に驚きました、気さくにお声をかけられ思っていることはそのまま申し上げることが出来ました」とおたちになられた後も緊張のおももちで話していた。
最後にお立ち寄りになられた食堂では、5、60人の研修生たちとにこやかに懇談された。両殿下は午後3時32分に同センターをご出発された】
≪追記≫中国経済の動向が懸念されます。ご承知の通りコロナ・ウイルスの感染拡大は一昨年はじめ、或いはそれ以前から中国・武漢から始まったとされています。もっとも中国はこれを認めていません。そして当初から中国政府は感染防止策として都市封鎖(ロックダウン)で対処してきました。この政策は一応成功したかに見え、中国は「共産党の勝利」としてきました。ところがその後変異したオミクロン変異株の感染拡大を防げませんでした。中国最大の経済都市・上海では2カ月にわたって都市封鎖が実施され、ようやく6月1日、事実上、封鎖は解除されました。この政策によってサプライチェーンに目詰まりが生じ、中国国内経済のみならず日本を含む世界中の国々に、直接・間接的に甚大な影響が出ています。中国では「共産党のやることに間違いはない」ことが絶対視されており、既定の政策を変更することは「非を認める」ことになり、絶対にあり得ないことなのです。全体主義国家の怖さと危うさを感じます。